「+false diary」を書いていくにあたって
「うそ日記」というジャンルについて考えてみました。
某IT企業の社長がブログに書いてましたけど、
「うそ日記」は読んでて確かに面白いというか、
エンターティメント性はあると思いました。
確かに嘘ではあるが、1話で簡潔になっていて、
オムニバス的で最初から嘘であることが前提になっていて
落語を見ているような感じがしました。
文章力があって、確かに笑えます。
でも、私が考えたのはもっと大きなフィールドでのうそ日記です。
落語に対して言うなら、映画のようなものです。
セットを作り、衣装も着込み、そんな感じのディテールを作りこんだやつです。
確かに落語的うそ日記は1話ごとに楽しめます。
どこから読んでも楽しめる読み物です。
※だから、アメーバーBookで話を集めて出版するんでしょうが。
(エッセイ集みたいなものですね。)
しかし、映画的うそ日記は下手すれば、面白くありません。
だって、ただの日記なんですから。
書き手が別の人格になって映画で演じるように書くだけですから。
面白くする為には、シチュエーションが大事だと思いました。
そこで、「サラリーマンの彼女がアイドル」という設定が、
読者の現実からはかけ離れて夢のようだけど、目の前に展開されているという
ちょっと曖昧な境界線がわくわくさせると考えました。
牛肉も腐る寸前がおいしいですしね。
腐ると腐っていないの境界線ぎりぎりがいいんですね。
フィクションとノンフィクションの境界ぎりぎり。
それを狙っています。
見る人によれば、現実の世界に見える。それがいいんです。
読み手が書き手が与える情況や文章から、
各自色々想像していくんです。
中には、「妄想かよ」という方がいますが、
読者に妄想をさせているのです。
映画や小説を観たり読んでいて入り込むのと同じですね。
嘘であることは前提としない。真贋は読者が判断する。
そのためにフィクションとノンフィクションの境界線が
流動的に変化する。
境界線は書き手が与えるものではなく、
読者の妄想具合によって色々変化していくという手法
が面白いと思いました。
フィクションとノンフィクションの境界線を曖昧にする
(役を作りこむ)ために役柄もそうですが書くという行動にも苦心します。
書き手(主役)はアマゾンのアフィリエイトプログラムに参加し、
ブログのランキングサイトにも参加している。
ここら辺の細かい役作りがリアリティを少しずつ醸しだしていくでしょう。
「+false diary」は映画であり、小説なんです。
途中で、これはうそ日記だとか、色々コメントがあると困るんですよね。
状況を理解して、察してほくそ笑んでくれる方もいますが、
鬼の首を取ったように、「+false diary=嘘の日記」ということを
開陳したい人が多いんですよね。
本当はコメントは活かしておきたかったんですが、
映画の途中で結末を喋るような人が出たので
やむを得ず禁止にしました。
それだけは残念ですね。
でも、メルアドを載せると励ましのメールが数十通も着ました。
内容は現実と思っている内容がすべてでしたが・・・
最後に、ひとつだけアメーバーBookの「うそ日記」募集に幻滅したことは、
企画があまりにも安直過ぎるということ。
たしかに、
「うそ日記」は面白いです。
だからといって、それを何編も集めてそれを本にしても売れないんじゃないでしょうか。
「電車男」が流行ったのは、そこに、読者の実生活に溶け込むような
というか、何かリンクするものがあったからだと思います。
フィクションとノンフィクションの境界線、それがそこに存在したんだと思います。
「電車男」も映画的だと思います。
もっと深くこね回してこなれた企画なら良かったかなと。
まあ、それはどうでもいいんですが。
ちなみに、「+false diary」のモチーフにしたのは、某IT企業の社長です。^^)/
※このブログが
「+false diary」の読者に見つからなければいいのですが・・・